大瀧詠一(おおたき えいいち、本名、大瀧 榮一、1948年7月28日 - )は、シンガーソングライター・作曲家・アレンジャー・音楽プロデューサー・レコードレーベルのオーナー・ラジオDJ・レコーディングエンジニア・著述家など、多くの顔を持つミュージシャン。
岩手県江刺市(現・奥州市)生まれ、母親は教師。血液型AB型。釜石南高校卒業、早稲田大学第二文学部中退。
一般には歌手としての表記(1973年ごろから)である大滝詠一で知られている。代表曲に、『幸せな結末』、『夢で逢えたら』、『A面で恋をして』など。
略歴[]
- 1969年 - はっぴいえんど(当時の名前は「ばれんたいん・ぶるう」)の一員としてデビュー。
- 1972年 - 初のソロアルバム『大瀧詠一』発表。
- 1973年 - はっぴいえんど解散。
- 1974年 - ザ・ナイアガラ・エンタープライズ設立。
- 1975年 - ナイアガラ・レコードの所属レコード会社がエレックレコードに決まり、活動を開始する。
- 1976年 - 所属していたエレックレコード倒産に伴い、 日本コロムビアに移籍(不遇の時代でスタジオの機材等を売り払ったこともある)
- 1981年 - CBSソニーに移籍。『A LONG VACATION』を発表。
- 1985年 - 歌手活動を休業。
- 1997年 - 12年ぶりのシングル『幸せな結末』発表。
- 2003年 - シングル『幸せな結末』から6年ぶりのシングル『恋するふたり』発売。
最近は音楽家としては実質的に引退状態で、勉強家などと称している。非常に多くの別名を持ち、その時々・役割で使い分けている。熱心なファンは自らを「ナイアガラー」などと称し、大滝の才能に敬意をこめて「師匠」とか「福生の仙人」などと呼んでいる。非常に多趣味であるが、特に読売ジャイアンツの大のファンであり、敬愛する長嶋茂雄の復帰などは本人のその後の活動に大きな影響を及ぼしている。
少年時代~はっぴいえんど時代[]
少年時代からエルヴィス・プレスリーをはじめとするアメリカンポップスに親しみ、特に1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。高校卒業後の1967年春に上京し、製鉄会社でサラリーマンをしていたが、午後に出社したりと散々な勤務成績で、わずか3ヶ月の在籍期間の後、退社。一方で会社の宴会でビートルズの「ガール」を歌ったところ好評で、上司に「キミはこんな所にいてはいけない」とプロになる事を暗に薦められたというエピソードもある。翌1968年には早稲田大学に入学。友人の布谷文夫が所属していた「タブー」というバンドや、竹田和夫率いる「ブルースクリエイション」に参加している。同時期に細野晴臣とも知り合い、共通の友人であり中田喜直の甥である中田佳彦と3人で「ランプ・ポスト」という私的な音楽研究会を開く。
1969年、エイプリル・フール解散直後の細野と松本隆によって計画されていたバンドに加入。バンド名をヴァレンタイン・ブルーとし、細野、松本、大瀧、鈴木茂の4人で活動開始。1970年にはバンド名をはっぴいえんどと改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。アルバム『風街ろまん』『HAPPY END』を発表するも、1972年末を持って解散。
1970年代[]
はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後ソロ活動を本格化し、1973年には三ツ矢サイダーのCMソング「Cider '73」を制作する。自身のレコード・レーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、「サイダー」をシングルとして発売する計画で、所属するレコード会社を探すも、当時CMソングをシングルとして商品化することは考えられなかったことで、どこに行っても断られるという状態であった。最終的には1975年にエレックレコードに所属することが決定し、アルバム『Niagara Moon』(1975年)を発表。また山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド・シュガーベイブのプロデュースなどを行う。
しかし、間もなくエレックレコードは倒産し、移籍した先のコロムビアレコードでは、16チャンネルのマルチトラックレコーダーを与えられる代わりに、1年間にアルバム4枚という、作品の大量生産を余儀なくされた。そんな中で発売された『ナイアガラCMスペシャル Vol.1』(1977年)は、どのレコード会社に持って行っても断わられていた、純粋にCMのために書き下ろされた曲を集めてレコード化する企画をようやく実現させたものだが、このアルバムは1970年代のナイアガラレーベルのアルバムの中で一番のヒットとなる(ソニー以前のナイアガラレーベルで実売が5桁だったのはこのアルバムだけだったといわれる)。だが、この時期のアルバムには、音頭や洋楽のパロディ、ノベルティ・ソングなど、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶようなマニアックな曲が並び、当時は一般的に理解されることはなかなかなかった。1978年には自身の事務所(その当時のナイアガラエンタープライズ)も閉鎖(倒産?)するという不幸も重なり、不遇の時代をすごした。
ただし、本人はナイアガラ時代の作品について、「売れないだろうし、何年経っても理解されないだろう」と、アルバム『Niagara Moon』の制作当初から考えいた様で、ナイアガラエンタープライズの立上げは、(セールス面においては)覚悟の上の船出であった。事実、大衆がどういったものを聴いてくれるか、という事は「Cider '73」で既に自覚しており、「Cider '74」にいたっては、大ヒットアルバム『A LONG VACATION』のサウンドに何ら劣らない出来であったと後にラジオ番組で語っている。
1980年代[]
しかし、この、いい意味でも悪い意味でも偏った作品群の制作の後、1980年にはCBSソニーに移籍。はっぴいえんど時代の盟友松本隆と組んだアルバム『A LONG VACATION』(1981年)がミリオンヒットし、商業的な大成功を収めた。1~2年も売れなかったらアーティストとしては終わり、といった当時のニューミュージック的な考え方からすると、5年も売れなかったアーティストが(急に)売れるなどというのは考えられないことで、一部では奇跡とも言われている。
その後は、佐野元春・杉真理とのアルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.2』(1982年)、松田聖子のアルバム『風立ちぬ』(1981年)のA面のプロデュースや、アルバム『EACH TIME』(1984年)等、『A LONG VACATION』と同系統の作品を発表。1985年にはシングル『フィヨルドの少女/バチェラーガール』を発表するが、翌1986年には全ての大瀧のレコードシングルを廃盤にしている。これは本人曰く「アルバム『A LONG VACATION』が邦楽第一号でCD化された事で人一倍レコードに思い入れのあった自分が結果的にCD普及を早める事になってしまったから」らしい。また、ベストアルバム『SNOW TIME』(1985年)をサンプル盤のみで配布するが、それが市場流出し、法外な高値を呼ぶことともなった(後に正規盤が発売することとともに、事態は収束していった)。
この頃、歌手としての活動を休業。歌手「大滝詠一」としてのライブ活動に関しては、1985年のはっぴいえんど再結成ライブなど「大滝詠一」以外のものを除くと、1983年7月24日に西武球場で行われた、サザンオールスターズ、RATS&STARと競演した「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83」以後は一切していない。それに伴って、「快盗ルビイ」(小泉今日子、1988年)などの曲提供以外では新曲を発表することもなくなった。
1990年代~現在[]
しかし、1997年には12年ぶりにシングル『幸せな結末』を発表し、月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌としてミリオンセラーを達成。2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。同じく月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌となる。以降の作品はいまだ発表されていない。
音楽性[]
海外の音楽についての豊富な知識をもち、それを駆使して制作される音楽は、時として極めてマニアックであり、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶような、独特であり、かつ、閉じた世界を形作ることが多い。作品によっては、パスティーシュとも言えるような作品もあるといわれるが、海外の音楽に詳しくないと(あるいはある程度詳しくても)、どの作品に由来しているのか、よくわからないことが多いようである。そのせいか、本人の楽曲は他の音楽作品(特に洋楽)と似通った部分がいくつかあり、しばしば指摘されることもあるが、そのことについては本人も言及している。
また、定期的に自身の作品群をマスタリングする等し、多くの“バージョン違い”が存在することでも有名である(下記記載の「シングル」「アルバム」「プロデュース」の項についてもその詳細は大瀧詠一著『All About Niagara』(増補改訂版、白夜書房、2005年)に委ねられる)。
一方自ら音頭好きと称して多数の音頭を発表してもいる。代表曲に「ナイアガラ音頭」(アルバム『Niagara Triangle Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR '78』収録)、金沢明子に提供した「イエローサブマリン音頭」等がある。緻密に練られたポップス系とは異なるお気楽さが身上。70年代から独自の路線を貫き、また、ライブでは洋楽と自身の楽曲をつなげて演奏したりと言った遊び心もあり、他のミュージシャンと競演した際にはよくこういった試みがなされていた。このことから、元祖日本のマッシュアップアーティストとの説もある。
日本のポピュラー音楽に与えた影響には小さからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系などへの影響を指摘する声もある。また、早くからのCMソングの重視も、その後のニューミュージック・J-POPにおけるテレビのCMや番組とのタイアップという路線の先駆をなしている。 音楽プロデューサーの小林武史もラジオではっぴぃえんどを特集するなど、非常に影響を受けていると語っており、タイアップの話が持ち上がった際に大滝の自宅まで出かけ相談したそうである。 大滝は小林の楽曲の良さを認めたうえで、「自分はここまで長く自分の曲を封印しているからこそ、自分の手だけで次曲を作りたい」というふうに小林曰く「気持ちよく断られた」とのことである。 桑田佳祐は英語の発音から意味不明的な歌詞を作ることで有名だが、「それは僕が先にやってたんだよね」と語っており、実際、そういう作詞は多く見られる。桑田はラジオで「こんばんわ、大滝詠一です」とモノマネをすることもあった。
また、山下達郎と共に、多重録音コーラスを行うアーティストとして非常に有名である。山下の様にアカペラアルバムこそ制作していないものの、活動初期から多重録音コーラスを行った作品を数多く制作しており、特に『GO! GO! NIAGARA』(1976年)では大滝1人によるコーラスグループ「Jack Tones」を登場させている。また他人への提供曲においても、後にスターダスト・レビューで活躍する根本要が在籍していたクレージーパーティーへ「がんばれば愛」を提供した際には、作ったデモテープをスタッフに聞かせた所、入っていたコーラスをレコードでも入れてほしいと言われて多重録音コーラスを行っている。
音楽プロデューサー[]
プロデューサーとしては、当初、フィル・スペクターのように、アイドルまたはガールグループをある程度「もの」としてとらえ、自分の考えを押し付けるという思想を持っていたふしがあり、その失敗例が吉田美奈子である。吉田の「夢で逢えたら」は客観的に見ると、作品としての質は高いが、大瀧の持っていたイメージに吉田を無理に合わせたということがあったようで、吉田は吉田で嫌いな作品と明言しており、大瀧の方も、決定盤は吉田の作品ではなくシリア・ポールの「夢で逢えたら」と考えているようである。このときの反省に基づいて松田聖子のプロデュースには成功した、という話もある。
もともと「夢で逢えたら」は、アン・ルイス用に書いた曲がお蔵入りになってしまい、大瀧、吉田の両者とも不承不承、製作側の強い意向によりアルバム「フラッパー」に収録することになり、レコーディング、発表されたもの。明らかに当時の方向性が違う吉田としては、この曲を代表曲扱いされてしまったことに対し激しい嫌悪感を抱くことになる。その為、吉田本人はシングルカットの際に拒否していたが、シリア・ポールのバージョンが一部で話題になったことを受けて、結局アルバム発売から2年後の1978年にシングルカットされた。カップリングは同じく「フラッパー」に収録されていた「Last Step」だった。
なお、大滝も方向性の違いを承知し、吉田の意向を理解していたため、これより前に、それまでの経緯から顔ぶれとして参加する必要があった事や、「シャレ」という意味からアルバム「MINAKO」のために「わたし」を提供・制作に参加した段階で吉田作品に自分が参加するのは最後にするつもりで、「フラッパー」には参加するつもりはなく、「夢で逢えたら」の提供についても彼女との方向性の違いを理由に大瀧は一旦断っている。しかし、制作側に押し切られる形で結局受諾せざるを得なくなり、ここでも「シャレ」という意味を強調する為に間奏に台詞を入れたりもしたが、編曲に協力した山下達郎を始めとしたレコーディングメンバーの才能が結集した事から、結果として「最高の作品」が出来てしまったという。そのため、彼女が嫌悪感を抱いた理由について「その気持がよく分かる」のコメントをしている。
こうした経緯から、吉田のデビュー前からの知り合いであり、吉田のデビューのきっかけに大瀧が絡んでいたにもかかわらず、その後の交流は私的なものは別として、音楽面では公的には行っていない。ただ、その「嫌いな曲」である「夢で逢えたら」を完全に自分のものとして消化しているとして、彼女の才能を高く評価している。
シリア・ポールのバージョン及び同曲を収録したアルバムは、この曲を高く評価していた朝妻一郎(フジパシフィック音楽出版社長・音楽評論家)が、「せっかく出来た素晴らしい曲を埋もれされるのは勿体無い」として大瀧に持ちかけた企画だったという。
「勉強家」[]
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。 自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する由である。
レコーディンエンジニア[]
1970年代の大滝自身の作品はほぼ大滝自身が、笛吹銅次(笛吹童子から考え出された)名義でレコーディングエンジニアを担当している。また、はちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク)/酔いどれダンスミュージック」にもレコーディングエンジニアとして参加。現在、再発売された唯一のアルバム『センチメンタル通り』に2曲とも追加収録されていて聴くことができる。
音楽[]
シングル(A面:B面)[]
- 『恋の汽車ポッポ:それはぼくじゃないよ』
- 『空飛ぶくじら:五月雨』
- 『青空のように:Cobra Twist』
- 『霧の彼方へ:悲しき北風』 (多羅尾伴内楽團、BGMのみ)
- 『ブルー・ヴァレンタイン・デイ:お花見メレンゲ』
- 『君は天然色:カナリア諸島にて』
- 『恋するカレン:雨のウエンズデイ』
- 『哀愁のさらばシベリア鉄道:哀愁のさらばシベリア鉄道 (Guitar Version)』
- 『A面で恋をして:さらばシベリア鉄道』*B面は太田裕美もカバーしているが、この際にマネージャーが大瀧Ver.を聞いて「よく出来たデモテープですね」と話した。
- 『ハートじかけのオレンジ:ROCK'N'ROLL退屈男』
- 『雨のウエンズデイ:恋するカレン』
- 『EACH TIME SINGLE VOX』
- 『夏のペーパーバッグ:木の葉のスケッチ』
- 『1969年のドラッグレース:銀色のジェット』
- 『魔法の瞳:恋のナックルボール』*B面イントロ時の「ブン!」という音は御大の振るバットの音
- 『レイクサイドストーリー:ガラス壜の中の船』
- 『ペパーミント・ブルー:ペパーミント・ブルー(Instrumental)』
- 『フィヨルドの少女:バチェラー・ガール』
- 『幸せな結末:Happy Endで始めよう』
- 『恋するふたり:恋するふたり (Strings Version)』
アルバム[]
- 『大瀧詠一』 (1972.11.25 ベルウッド)
- 『Niagara Moon』 (1975.5.30)
- 『僕は天使ぢゃないよ』 (1975.12.5 あがた森魚・大瀧詠一名義・ベルウッド)
- 『Niagara Triangle vol.1』 (1976.3.25)
- 『GO! GO! NIAGARA』 (1976.10.25)
- 『Niagara CM Special vol.1』 (1977.3.25)
- 『多羅尾伴内楽団 vol.1』 (1977.11.25)
- 『NIAGARA CALENDAR '78』 (1977.12.25)
- 『多羅尾伴内楽団 vol.2』 (1978.6.25)
- 『DEBUT』 (1978.8.25)
- 『LET'S ONDO AGAIN』 (1978.11.25)
- 『A LONG VACATION』 (1981.3.21)
- 『NIAGARA FALL STARS』 (1981.4.1)
- 『Sing ALONG VACATION』 (1981.7.21)
- 『NIAGARA VOX』 (1981.12.2)
- 『MORE NIAGARA FALL STARS』
- 『MORE MORE NIAGARA FALL STARS』
- 『Niagara Triangle vol.2』 (1982.3.21)
- 『NIAGARA SONG BOOK』 (1982.6.1)
- 『Niagara CM Special vol.2』 (1982.10.1)
- 『アーリー 大瀧詠一』 (1982.12.21)
- 『NIAGARA CM SPECIAL』 (1983.5.21)
- 『EACH TIME』 (1984.3.21)
- 『NIAGARA BLACK VOX』 (1984.4.1)
- 『NIAGARA SONG BOOK2』 (1984.6.1)
- 『B-EACH TIME L-ONG』 (1985.6.1)
- 『SNOW TIME』 (1985.12)
- 『Complete EACH TIME』 (1986.6.1)
- 『NIAGARA FALL STARS-2nd Issue』 (1986.6.1)
- 『NIAGARA CD BOOK』(1986.6.1)
- 『DAWN IN NIAGARA』
- 『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1 2nd Issue』
- 『NIAGARA BLACK BOOK』 (1987.6.21)
- 『TARAO BANNAI SPECIAL』 (多羅尾伴内楽団)
- 『DEBUT SPECIAL』
- 『LET'S ONDO AGAIN SPECIAL』
- 『大瀧詠一Song Book vol.1』 (1991.3.21)
- 『大瀧詠一Song Book vol.2』 (1995.3.24)
- 『A LONG VACATION 20th Anniversary Edition』 (2001.3.22)
- 『Niagara Triangle Vol.2 20th Anniversary Edition』 (2002.3.21)
- 『EACH TIME 20th Anniversary Edition』 (2004.3.21)
- 『Niagara Moon 30th Anniversary Edition』 (2005.3.21)
- 『Niagara Triangle Vol.1 30th Anniversary Edition』 (2006.3.21)
- 『Go! Go! Niagara 30th Anniversary Edition』 (2006.9.21)
- 『Niagara CM Special 3rd Issue 30th Anniversary Edition』 (2007.3.21)
- 『多羅尾伴内楽団 2in1』(2007.9.21)予定
- 『NIAGARA CALENDAR 30th Anniversary Edition』(2008.3.21)予定
- 『LET'S ONDO AGAIN 30th Anniversary Edition』(2008.9.21)予定
(版違い他多数あり)
プロデュースした代表作(アルバム)[]
- 『SONGS』(SUGAR BABE)
- 『夢で逢えたら』(シリア・ポール)
- 『風立ちぬ』(A面のみ)(松田聖子)
- 『Candy』(四月のラブレター/Rock’n’roll Good-by)(松田聖子)
- 『Soul Vacation』(ラッツ&スター)
- 『Ring-a-Bell』(渡辺満里奈)
- 『PINUP GIRL』(市川実和子)(「多幸福」名義)
(他多数)
作曲家としての代表作品[]
- 『ナイアガラ音頭:あなたが唄うナイアガラ音頭』(作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内/歌:布谷文夫 with ナイアガラ社中)
- 当時、大瀧が出演していたラジオ『ゴ-!ゴ-!ナイアガラ』に送られてきたハガキのアイディアを元に作られた。尚、あなたが唄うナイアガラ音頭にはイントロが追加されている。元々、この曲をシングルカットする予定はなく、当時レーベルが置かれていたコロムビアからの要請を受けてシングルカットしたようである。
- 『さらばシベリア鉄道』(作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一/編曲:萩田光雄/歌:太田裕美)
- のちにA LONG VACATIONにてセルフカヴァー。
- 『風立ちぬ』(作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内/歌:松田聖子)
- ヘッドフォンコンサートでセルフカヴァーを披露したことがある。
- 『冬のリヴィエラ』(作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一/ストリングスアレンジ:前田憲男/歌:森進一)
- のちにSNOW TIMEで英語詞で『夏のリヴィエラ』としてセルフカヴァー。
- 『怪盗ルビィ』(作詞:和田誠/作曲:大瀧詠一/編曲:大瀧詠一・白井良明/歌:小泉今日子)
- のちにデモテープを用いた大瀧とのデュエット版が作成された。『KYON3~KOIZUMI THE GREAT 51』に収録。
- 『すこしだけやさしく』(作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一/編曲:井上鑑/歌:薬師丸ひろ子)
- TBS『わくわく動物ランド』のエンディング曲。大滝詠一最後のライブでも歌唱された楽曲。
- 『うなずきマーチ』(作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内/歌:うなずきトリオ)
- ビートきよし、島田洋八、松本竜介の3人によるトリオの名称。『オレたちひょうきん族』内で歌われた楽曲として有名。
- 『熱き心に』(作詞:阿久悠/作曲:大瀧詠一/ストリンスアレンジ:前田憲男/歌:小林旭)
- 大滝は彼の大ファンで、小林の代表曲である「さすらい」と「惜別の唄」を掛け合わせて作ったと言っている。また「熱き心に」とは、作詞を手がけた阿久 悠が色紙に書いている言葉であった。
- 『実年行進曲』(作詞:青島幸男/作曲:大瀧詠一/編曲:大瀧詠一/歌:ハナ肇とクレージーキャッツ)
- 大瀧がこよなく愛するクレージーキャッツと、クレージーの数々のヒット曲を生み出した作曲家の故・萩原哲晶へのオマージュ。青島幸男の作詞を得て、往年のクレージーらしい作品になったが、大滝同様クレージーのファンであった所ジョージには酷評される。アレンジには昔のヒット曲のフレーズも垣間見える。
- 『夢で逢えたら』(作詞:大瀧詠一/作曲・大瀧詠一/編曲:大瀧詠一/コーラス&ストリングスアレンジ:山下達郎/歌:吉田美奈子)
- RATS&STARのカヴァーでも知られるように、現在日本の歌謡曲としては最も多くのカヴァーバージョンの存在する楽曲だが、大瀧自身によっては一度も歌われていない。
- 『うれしい予感』(作詞:さくらももこ/作曲:大瀧詠一/編曲:CHELSEA/歌:渡辺満里奈)
- 『君は天然色』の姉妹曲として作られた曲。アニメ「ちびまるこちゃん」のオープニングテーマ。シングル等にクレジットされてはいないが、コーラスアレンジを山下達郎が手がけ、コーラスでも参加している。
トリビュート・アルバム[]
- 『ナイアガラで恋をして Tribute to EIICHI OHTAKI』
主な別名・変名[]
- 大滝栄一
- 大滝詠一(アーティスト名)
- イーチ大滝
- Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ(グールプ名は、楽曲提供したキングトーンズから取った物と思われる。)
- 多羅尾伴内(アレンジャー&CM音楽作曲時)
- ちぇるしぃ(CHELSEA)(アレンジャー時)
- 笛吹銅次(レコーディングエンジニア時)
- 我田引水
- 鬼野盗作
- 馬耳東風
- 遠山”桜吹雪”金五郎
- 金田一幸助
- 南部半九郎(パーカショニスト時)
- 国定公園
- トランク短井(フランク永井のパロディー)
- 二宮損損
- 宿霧十軒(コーラス時)
- 坂本八(坂本九のパロディー)
- イーハトーブ田五三九(ドラマー時)
- 厚家羅漢
- RINKY O'HEN(アレンジャー時(多羅尾判内の別名))
- 吉川詠一
- 多幸福(テレビドラマのプロデューサーとの共同ペンネーム)
(その他多数)
CMソング[]
- アサヒ飲料三ツ矢サイダー('76)だけは山下達郎(映像は秋吉久美子)だが、これは大瀧がオーディションに落ちたため、と言われている。しかし、本人曰く「シュガーベイブで三ツ矢サイダーをやる事になっていたが、解散した為、リーダーの山下がやる事になった」らしい。
- リンレイジャック(ザ・ブレッスンフォー(おかあさんといっしょの「そうさんのあくび」や「パジャマでおじゃま」(初代)の歌唱で有名なコーラスグループ)
- ブルボンココナッツ・コーン(過去に発売していた東ハトキャラメルコーンのライバル商品)
- 三菱電機ジーガム
- 花王ドレッサー
- BIG JOHN
- クリネックス
- 日清食品出前一丁
- 資生堂サマーローション
- 資生堂(A面で恋をして)
- 清酒・大関*映像は渡哲也
- グリコ・ポッキー(風立ちぬ 松田聖子作曲・アレンジを担当)
- ロート製薬新Vロード、キリンビバレジ生茶(君は天然色)
- ソニーデジタルハンディーカム(スピーチバルーン)
- キリンビール(ロックンロール・マーチ)
- NTTサンクスフェアー(レッツ・オンド・アゲイン細川たかしカヴァー(日本語詞を担当))
- 横浜ゴム(バーチェラー・ガール 稲垣潤一カバー(作曲を担当))
- AGFマキシム(熱き心に 小林旭(作曲を担当))
- サントリーギフト(冬のリヴィエラ 森進一(作曲を担当))
- ライオンクリスタ(夢で逢えたら ラッツ&スターカバー(作詞と作曲を担当))
- ダイハツ工業ミラジーノ(2代目)(夢で逢えたら キンモクセイカバー(作詞と作曲を担当))
- トヨタ自動車アリオン(2代目)(恋するカレン)
- ハウスプリン(歌:大場久美子)
大滝が最初に作ったバージョンは、却下された。
参考資料[]
- All About Niagara(増補改訂版、白夜書房、2005年)
- 各アルバムのライナー・ノーツ
関連項目[]
- ナイアガラ・レーベル
- ゴー・ゴー・ナイアガラ
- 福生45スタジオ
- 杉真理
- 佐野元春
- 三ツ矢サイダー
- エルヴィス・プレスリー
- フィル・スペクター
- ウオールオブサウンド
- ハナ肇とクレージーキャッツ
- 小林旭
- 山下達郎
- 伊藤銀次
- 岩手県出身の有名人一覧
- 日本語ロック論争
- 小林信彦
- さくらももこ
- 吉田保(吉田美奈子の実兄)
外部リンク[]
- Ami-go Gara-ge - 公式ページ
- 大滝詠一 - ソニーミュージックによる公式ページ
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