YMO Wikia
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1990年代以降の日本の音楽シーンで活躍するミュージシャンの中で、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャン達は「[[YMOチルドレン]]」と呼ばれることがある。代表的アーティストは[[槇原敬之]]、[[宮沢和史]] ([[THE BOOM]])、[[高野寛]]、[[テイトウワ]]、[[電気グルーヴ]]など。
 
1990年代以降の日本の音楽シーンで活躍するミュージシャンの中で、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャン達は「[[YMOチルドレン]]」と呼ばれることがある。代表的アーティストは[[槇原敬之]]、[[宮沢和史]] ([[THE BOOM]])、[[高野寛]]、[[テイトウワ]]、[[電気グルーヴ]]など。
   
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== 来歴 ==
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=== 結成 ‐ ワールド・ツアー ===
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[[細野晴臣]]は、[[ドラマー]]の[[林立夫]]、[[歌手|シンガー]]のマナと共に細野の「イエロー・マジック・カーニヴァル」を[[カバー#カバー(楽曲)|カバー]]するという[[ユニット]]を構想していた。だがこれは実現せず、続いて細野は林と[[佐藤博 (ミュージシャン)|佐藤博]]のユニットで[[マーティン・デニー]]の「ファイアー・クラッカー」をカバーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった<!--(このことには他にも説があり、細野と親しい霊感の強い女性が「あの人たちと組むべきでは無い」と助言したという説もある)-->。
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その後、シンガーのマナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーする。
   
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そんな中、[[1978年]][[2月19日]]、細野のソロアルバム『はらいそ』収録の「ファム・ファタール」録音時に[[坂本龍一]]、[[高橋幸宏]]と初めて'''3人で'''顔を合わせることとなった。坂本と細野は[[1975年]]、[[大滝詠一]]の「福生ストラット Part I」の録音時に顔合わせしており、[[1976年]]に細野が[[ティン・パン・アレー]]のツアーでサポートメンバーとして坂本を起用する関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流は[[サディスティック・ミカ・バンド]]が1975年の「ジャパン・ロック・フェスティバル」に出演した際、[[小原礼]]の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった<ref>レコード・コレクターズ 2003年2月号</ref>。細野は2人を自宅に招き、「'''焼きおにぎりを食べながら'''(おかかおにぎりやみかんという説もあり)」[[バンド (音楽)|グループ]]の[[概念|コンセプト]]を彼らに伝えると二人は賛同、ここにYMOが結成される。細野は二人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」を[[シンセサイザー]]を使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとして[[編曲|アレンジ]]し、[[シングル]]を世界で400万枚売る」というメモを見せている。
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上記のメンバーが決まった後も、結成当初は[[横尾忠則]]をYMOの4人目のメンバーに加える構想があった。しかし実際、細野は横尾に対し記者会見にくるよう伝えていたが、横尾はその日なぜか「行きたくなかった」とキャンセル。最初期YMOの[[商標|トレードマーク]]である[[タキシード]]も4着用意されていたが、後にサポートとして4人目のメンバーの称号を得たのは結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート[[松武秀樹]]であった。YMOの特徴であるシンセサイザーの[[自動演奏]]は、彼が一手に引き受けることとなる。
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1978年[[11月25日]]、デビュー・アルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)|イエロー・マジック・オーケストラ]]』を[[アルファレコード]]より発売する。アルファレコードは同年秋にアメリカの[[A&Mレコード]]と業務提携しており、[[12月10日]]に[[紀伊國屋ホール]]で行われた[[ライブ|ライヴ]]が来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まったことで、全米でデビューが決定する(後に発売された同ライブ収録CDのライナーノーツで、「トミーがライブを目にして全米発売を決定」というエピソードは実は後付けであったことが明かされている。実際は既に決定されていたとの事)。
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[[1979年]][[5月30日]]、デビュー・アルバムを[[リミックス]]したアルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (US版)|Yellow Magic Orchestra]]』(米国盤)をA&Mレコード傘下のホライゾン・レーベルから発売。この米国盤は[[7月25日]]に日本でも発売され、最高位は[[オリコン]]・チャート20位。
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1979年[[8月2日]]~[[8月4日]]には[[ロサンゼルス]]のグリークシアターでチューブスの前座を行い、[[8月6日]]にはマダム・ウォンにて単独ライヴを行う。この頃から徐々にその存在は注目されていく。
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9月に発売された2枚目のアルバム『[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]』はオリコン・チャートの最高9位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を老若男女に広く浸透させることとなった(アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。
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10月には初のワールド・ツアー「[[トランス・アトランティック・ツアー]]」を[[イギリス]]、[[ロンドン]]のヴェニュー公演からスタートする。[[テレビ]]、[[ラジオ]]でも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な[[人民服]]風の[[服装|コスチューム]]など、その独特なスタイルが注目を集めた。その後YMOが帰国する頃には日本ではYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「[[輸入#逆輸入|逆輸入]]」された形となった。
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この第1回ワールド・ツアーの模様は3枚目のアルバム『[[パブリック・プレッシャー]]』で発表されるが、サポート・[[ギタリスト]]の[[渡辺香津美]]の[[ギター]]・チャンネルは、渡辺が所属していた[[コロムビアミュージックエンタテインメント|日本コロムビア]]の意向でカットされることとなり、代わりに坂本のシンセサイザーが録音された(後にこれは『[[フェイカー・ホリック]]』などいくつかのライヴ盤で復活する)。<!--坂本は当時、レコード会社よりも渡辺に対して怒りを覚えたらしい。(←これは坂本の憶測であることが田山三樹著「NICE AGE YMOとその時代」に記述されている)渡辺自身も後に、カットされたのは遺憾であったと発言している。-->しかし、ギターがカットされたことで、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]臭さが抜けたため、よりテクノっぽくなったという皮肉な結果となった。
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[[1980年]]にはYMOの人気は圧倒的なものとなり、3月からは初の国内ツアー「[[テクノポリス2000-20|TECHNOPOLIS 2000-20]]」が行われる。6月に発表された4枚目のアルバム『[[増殖 (YMO)|増殖]]』は、10万枚の限定盤予定だったが20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。1980年10月には第2回ワールド・ツアー「[[FROM TOKIO TO TOKYO]]」がイギリス、オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは7か国15会場で行われ、[[アメリカ]]、ロサンゼルスのチャップリン・メモリアル・スタジオ公演は日本への衛星中継が行われた。ツアーは12月の[[日本武道館]]での4連続公演で締めくくられた。
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=== 『BGM』 ‐ 『テクノデリック』 ===
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[[1981年]]3月、アルバム『[[BGM (YMO)|BGM]]』が発売され、それまでの[[ポピュラー音楽|ポップ]]指向のスタイルから一転、暗く重い[[ヨーロッパ]]志向のエレクトリックミュージックを展開し、YMOのイメージを大きく転換させた。<!--アルバムタイトルは『[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]』までのYMOについて揶揄の意味で「[[バックグラウンドミュージック|BGM]]のようだ」と評された事を逆手にとって付けたと言われている。-->『BGM』収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であり、同じく「U.T」は後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。歌詞もそれまでの[[クリス・モスデル]]による散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞は[[ピーター・バラカン]]との共同作業)が行われるようになった。またこの時期のメンバーはソロ活動や他アーティストとの活動を盛んに行うようになる。続く11月にはアルバム『[[テクノデリック]]』が発表され、世界初と言われる[[サンプリング]]の技術が大々的に導入された。
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これらのアルバムの発表に続いて、国内ツアー「[[ウィンター・ライヴ1981]]」が[[11月24日]]の宮城県民会館公演から始まる。このツアーでは楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとして初めてテープが使用された。数々の実験的な試みとともに重く暗いサウンドを展開したこの時期は、YMOが「影」の側面を見せた時代であった<!--とも言える-->。
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また、この頃からイエロー・マジック・オーケストラは「YMO」(ワイ・エム・オー)という略称で呼ばれるようになった。
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雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」<ref>ロッキンf 1981年5月号</ref>と坂本が語った<!--ことに見られる-->ように、坂本と細野の間で路線対立じみた緊張感が発生するなどしていたメンバー間では、[[1981年]]末でYMOとしての活動にピリオドを打つという考えがあったようであるが、ビジネス面での要求から解散は先延ばしされた。
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=== 『君に、胸キュン。』 ‐ 「散開」へ ===
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翌1982年、メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野晴臣は「はっぴいえんど」での盟友[[松本隆]]と共に[[松田聖子]]への曲提供を行い、坂本は[[郷ひろみ]]や[[前川清]]などのプロデュースを行い、また、[[忌野清志郎]]と共に「[[い・け・な・いルージュマジック]]」をリリース。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。細野は高橋と共に「¥EN」レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。YMOとしては「[[オレたちひょうきん族]]」に出演し、当時ブームだった漫才番組の「[[THE MANZAI]]」に「トリオ・ザ・テクノ」名で出演して漫才を披露するなど、グループとしての音楽活動はほとんど無い状態であった。
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[[1983年]]になると、自らに[[歌謡曲]]というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開する。オジサンアイドルを気取って日本語の歌謡曲を歌う三人の姿は非常にシュールであり、また末期を思わせた。シングル「[[君に、胸キュン。]]」でオリコン・チャート1位を狙うと宣言するも、皮肉にも細野の作曲/編曲による[[松田聖子]]の「天国のキッス」に阻まれ、2位に終わる。
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1983年5月に発表されたアルバム『[[浮気なぼくら]]』は、またしてもそのイメージを大きく変化させた歌謡曲アルバムであるが、アルバム自体は優れた楽曲が納められた緻密なサウンドの作品であった。先行シングルの「君に、胸キュン。」は[[カネボウ化粧品]]のテレビCMに起用され、また「[[以心電信 (YMO)|以心電信]]」は世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。
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ラストアルバムである『[[サーヴィス (YMO)|サーヴィス]]』を含む後期の作品は、細野の言葉で言うと「オマケ」であり、彼は『浮気なぼくら』が実質的なラストアルバムであるとする。『サーヴィス』は当時高橋幸宏が担当する「[[オールナイトニッポン]]」に劇団[[スーパー・エキセントリック・シアター]]がレギュラーとして出演していたことから、彼らとのコラボレーション・アルバムとして製作された。
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1983年11月23日、最後のツアーである「1983 YMOジャパンツアー」が札幌公演から始まる。『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売され、ツアーは12月22日の日本武道館公演で終了、YMOは『散開』(解散)した。「散開」ツアーでは、歌うことに専念したいと考えた高橋は、基本的に簡単なパーカッションと単音のシンセ音を担当するのみでヴォーカルに徹し、ドラムは「テクノポリス~ライディーン」で叩いたのみ{{要出典}}。そのためドラムスにはデヴィッド・パーマーがサポートメンバーとして参加した。この散開コンサートを素材とした映画『[[プロパガンダ (YMO)|プロパガンダ]]』が製作され、翌[[1984年]]に公開された。
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彼らの活動期間はわずか5年間であったが、その音楽性やテクノロジーが国内・国外の音楽界に及ぼした影響は絶大であった。
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=== 「再生」 ‐ その後 ===
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散開後も幾度となく再結成がささやかれたが、細野がすべて断っていた。しかし、[[1993年]]に「再結成」ではなく「再生」という形で実現した。このとき、「YMO」という名称が商標登録され使用できなかったため、実際には「YMO」に×マークをつけた「ノットYMO」という名称だった。記者会見は、口上を当時のお笑い番組「[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]」のキャラクターであるオジンガーZが行い、巨大なベッドに三人が寝ころんで行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった(それと同時に当時放映されていた「[[進め!電波少年]]」の[[松村邦洋]]が会場に芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた)。再生YMOはアルバム『[[テクノドン]]』を発表するが、以前の作品群とは大きく様相が異なり、アンビエント色の強い作品であった。先行シングル「[[ポケットが虹でいっぱい]]」は[[エルヴィス・プレスリー]]のカバー曲であった。6月10、11日に[[東京ドーム]]で2日間限りの再生公演が行われる。
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当初の計画ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作するなどの予定があったが、結局「YMO」としてそれらの活動が行われることはなかった。しかし、細野・高橋・坂本の三人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。
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==== 2001年 ====
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* [[1月23日]]、[[日本放送協会|NHK]]-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「イエローマジックショー」にて元YMOの3人が競演。シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのシーケンスなし3ピース形式で「[[ライディーン (YMO)|ライディーン]]」を演奏した。3人が老人に扮し、どてらを着て演奏していたところから「どてらYMO」と呼ばれる。この演奏が「3度目の再結成」と呼ばれることもあった。
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* [[4月30日]]、[[東京放送|TBS]]50周年特別企画「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」において、'''[[N.M.L.]]''' (NO MORE LANDMINE) が、先に発売されていた坂本作によるキャンペーンソング「[[ZERO LANDMINE]]」を生演奏した。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、[[デヴィッド・シルヴィアン]]や[[クラフトワーク]]など、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも参加した。ここでもまた、元YMOの3人が共演した。
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==== 2002年 ====
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* 細野と高橋のユニット「[[スケッチ・ショウ]]」のライヴ「Wild Sketch Show」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立つ。これは実質「YMOの再来である」と往年のファンの目頭を熱くさせた。実際に坂本も演奏に参加し、演奏曲目にも、新たなアレンジとなった「[[キュー (YMO)|キュー]]」や「[[中国女 (曲)|中国女]]」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」などYMOのナンバーが何曲か含まれた(スケッチ・ショウ初披露の際も細野・高橋・坂本の3人でメディア露出があり、スケッチ・ショウのデビュー・アルバムにはすでに坂本が参加している)。
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==== 2004年 ====
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*[[6月18日]]、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「Sonar Festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、スケッチ・ショウ+坂本龍一のユニットである「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|Human Audio Sponge]]」として1993年の再生LIVE以来11年ぶりに3人がユニット(バンド)としてステージに立った。
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*[[10月9日]]と[[10月10日]]、「sonarsound tokyo 2004」が[[恵比寿ガーデンプレイス]]で開催され、「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|Human Audio Sponge]]」として再びステージに立った。ステージでの立ち位置は往年のYMOと同じく向かって左から坂本、中央に高橋、右に細野であり、登場時には聴衆を興奮させたが、演奏スタイルはそれぞれのブースに   [[Macintosh|Mac]]を配置したクールな[[エレクトロニカ]]ライヴであった。ここでの演奏曲目はスケッチ・ショウのレパートリー中心に坂本のソロ曲2曲を挿入した全14曲。YMOの持ち曲は「ジャム」のみ。[[1980年]][[FROM TOKIO TO TOKYO|ワールド・ツアー]]のオープニングでも演奏された坂本ソロ曲「ライオット・イン・ラゴス」の演奏がハイライトであった。
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==== 2007年 ====
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* [[2月3日]]、[[麒麟麦酒|キリン]]ラガービールのCMにおいて復活。3人が同時に出演し、往年の名曲「[[ライディーン (YMO)|ライディーン]]」を新たに編曲した「[[RYDEEN 79/07]]」が使用される。3人一緒の写真がデザインされているラガービール6缶パック(2種)が限定発売された。
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*[[3月21日]]、ベストアルバム『[[YMO GO HOME!]]』とライブアルバム『[[ONE MORE YMO]]』が[[ソニー・ミュージックエンタテインメント|SME]]よりリイシューされた。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『[[UC YMO]]』の初回盤が復刻発売された。
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* [[5月19日]]、「Smile Together Project」の一環として「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|Human Audio Sponge]]」のライヴを[[パシフィコ横浜]]国立大ホールにて行った。このライブでは「[[以心電信 (YMO)|以心電信]]」や「Rydeen 79/07」、「[[キュー (YMO)|CUE]]」などのYMOナンバーも演奏された。チケット売り上げは全額、「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となり、病気と闘う子供と家族を支援する。
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**[[アップルコンピュータ|アップル]]のウェブサイトにおける[http://www.apple.com/jp/articles/interviews/sakamotoryuichi/ Special Interview]で、[[坂本龍一]]が『歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも境界線がわからなくなってきている』ので、「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HAS]]と書いてYMOと読んでくれ」と発言した。ただ「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている<!--ので、本人達の中では明確に違うようではある←個人の憶測-->。
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* [[7月7日]]、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「[[ライブ・アース]]」に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」として出演。会場は[[京都市]]の[[東寺]]の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。80年代往時のYMOイメージを彷彿とさせるメタルフレームの個別ブース3基が用意され、それらの移動セッティング開始(本人ら登場の数分前)から早くも観客が総立ちで拍手し始めるなど、YMOへの期待は大きかった。演目は「以心電信」「RESCUE」「War & Peace」「Rydeen 79/07」の4曲。終演のアナウンスが流れても、実際にセットが撤収されるまでアンコールの拍手が鳴り続けた。
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* [[8月22日]]、新曲「RESCUE」と「Rydeen 79/07」とを2枚組CDとして[[エイベックス]]から発売される。名義は「Rydeen」が「イエロー・マジック・オーケストラ」、「RESCUE」は「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた[[HASYMO]](ハシモ)。YMO名義のCD発売は[[1993年]]の「[[テクノドン・ライヴ]]」以来となる。
   
 
== 「YMO」というジャンル ==
 
== 「YMO」というジャンル ==
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